父の認知症の始まりは・・・

2025年09月13日 07:20

第1章 夜明けを待つ日々 〜父と薬と、私の闘い〜

「おかしい……こんなはずじゃなかったのに」

父が胆石の手術を終えた直後、病室に通い続ける私は、何かが変だと感じ始めていた。術後にひどくなった黄疸。やがて「自己免疫性肝炎」という新たな病名が告げられた。だが、私を不安に陥れたのは病名ではない。父の目の光が、日ごとに、少しずつ変わっていったことだった。

もともと無口で頑固な父が、妙に饒舌になり、現実とは思えない話を始めた。意味の通らない言葉を繰り返す父の姿に、私は恐怖すら感じた。

毎日、仕事を終えると病院へ駆けつける。母も見舞いに通っていたが、父との会話はいつも険悪で、言い争いが絶えなかった。
私は何かがおかしいと直感し、父の飲んでいる薬の副作用を一つ一つ調べ始めた。フェイスブックでつながった医師に相談をし、今の状態が「薬のせいでは」と伝えてみたが、主治医は「この薬でせん妄は起こらない」と取り合ってくれなかった。

このままでは父が壊れてしまう。私は、セカンドオピニオンを求めることを決意した。

やがて黄疸はひき、退院が決まった。しかし父の認知症状は悪化していた。精神病院での受診を経て、別の施設への転院が決まったとき、私はほっとした。処方が変われば、父の様子も変わるかもしれない。

けれどその希望は、あっけなく打ち砕かれる。ある日病院を訪れると、父の顔に大きな青痣があった。別の患者のベッドに入り込んでしまい、その患者に殴られたのだという。

私は絶句した。
「もう、ここから出してあげたい。こんな場所に置いておけない」

その日から、私は毎週末、父を外泊で自宅に連れて帰ることにした。父のそばを一時でも離れないように、土日は私がずっと付き添った。

だが、父はほとんど眠らなかった。寝ても5分で目を覚まし、私を起こさないようにそっと起き上がり、部屋の中をゴソゴソと歩き回る。ある夜は、突然「喫茶店に行こう」と言い出した。

「近くに行きつけの店があるから」と、まるで夢でも見ているように語る父。ここは私の家。喫茶店などない。私は混乱しながらも、父の気持ちを受け止めるように、車でガストに連れて行った。

そんな夜が毎週末、繰り返された。睡眠不足と心配で、私は月曜日に仕事から帰ると、倒れるように眠ってしまうほど疲れていた。

しばらくして、夫が言った。
「もう、ここに連れてこないで。せめて実家に連れて帰ってほしい」

それからは、外泊許可を取り、毎週末、父を実家に連れて帰る日々が始まった。そこで私が泊まり込み、夜を共にした。すると少しずつ、父の様子に変化が現れ始めた。

夜に眠る時間が、ほんの少しずつだが伸びていった。だんだんと、父の表情に穏やかさが戻ってきた。そしてついに――退院が決まった。

退院後の暮らし 〜数独と麻雀、そして希望〜

自宅に戻った父は、毎日デイサービスに通うようになった。しかし、問題がすぐに解決したわけではない。帰宅後に勝手に外出し、警察に捜索を頼んだ日もあった。隣の壁をトンカチで壊してしまったこともあった。

でも私は諦めなかった。主治医と相談しながら少しずつ薬を減らしていった。すると、父は次第にデイサービスに楽しみを見つけるようになっていった。母を連れて一緒に見学に行くこともあった。家族で「新しい日常」を築こうと努力した。

そして、ある日。
父が麻雀大会で優勝したと聞いた。私は驚いた。

家に帰ると、父はテレビの横で黙々と数独を解いていた。時折、漢字の書き取りにも挑戦している。その姿はまるで、別人のように穏やかで、集中していて、生き生きしていた。

短期記憶にはまだ不安が残る。でも、あの混乱と暴言、そして目の焦点の合わない顔を思えば、今の父は“再生”したと呼べる存在だった。


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この経験が教えてくれたこと

この一連の経験を通して、私は確信した。
「医師の言葉だけが正解ではない」
家族の異変に気づくのは、医療者ではなく、最も近くで見守っている私たち自身だということ。

薬の副作用や多剤投与によるせん妄。これは、決して珍しいことではない。でも、知らなければ気づけない。疑問を持たなければ、立ち止まることさえできない。

違和感を信じて、行動する勇気。それこそが家族を救うカギだった。


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もしあの時の自分に声をかけられるなら

「大丈夫、あなたが感じている不安は本物。
思い切って行動してごらん。あなたの愛と直感は、何よりも強い武器だから」

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